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ロコ情報スペシャル!
宮崎篇

「海と暮らす」ためのコミュニティハブAOSHIMA BEACH PARK。“日本の海水浴場”とはかけ離れたビーチパークの佇まいは、遠方からも人を呼び、青島の街自体を変えました。その立役者は、博報堂出身の宮原秀雄氏。なぜこの地に、このようなビーチをつくることができたのでしょうか。

発行誌が結びつけた縁

 博報堂にいたころ、平日は東京で働き、土日は千葉でサーフィンをして過ごす二拠点生活をしていました。そのうち、「自分らしくいられる海での暮らしが週に2日だけってどうなのだろう」と思うように。海辺への移住を考えるなかで、父が亡くなり、妻が妊娠し、3.11があって意思がかたまりました。より南の方で、自然の中で育児をしよう、サーフィンが日常にある生活をしようと。
 必然的に会社は辞めることになります。退社の前に、宮崎県の青島と、福岡県の糸島を候補にリサーチを始めました。

 青島を選んだきっかけとなったのは、僕ら夫婦が発行している『CANVAS』というライフスタイル誌の読者が、僕らの移住準備の動きを聞いて「宮崎に来てほしい」と声をかけてくださったこと。僕らのインスタグラムへ直々にメッセージをくれました。
 もともと青島にはサーフィンで年に数回訪れていて、どれだけ居心地のいい場所かということは知っていました。加えて読者の彼女らが宮崎のよさをプレゼンしてくれて、あちこち連れまわしてくれて。
 そのころの時世には、「これから地方が来る」という空気がありました。そんななか彼女たちは、「宮崎をもっと発信したい」と感じていたんじゃないかな。だからこそ、広告会社にいた僕と編集者の妻という夫婦ユニットを、宮崎へ呼びたいと思われたのだと推測しています。

 当初、移住後は夫婦でオーベルジュをつくろうと考えていました。食事ができて、宿泊もできる、『CANVAS』のリアル版をつくりたいと。移住前に、家を探したり、人とのつながりを築いておこうと宮崎を訪れていたときに、人づてに宮崎市の方から相談を受けたんです。
 海水浴場の復活を手伝ってもらえないかと。
 人からよく聞かれるのは、「仕事があったから移住したの?」ということでしたが、実際は移住しようとしたらお話をもらえたという形です。雑誌を持っていて、自分たちのスタイルや考え方を発信できていたことが大きく貢献したと感じています。

「海の家」案ではなく、「ビーチパーク」を提案

 当初、宮崎市が考えていたのはあくまでも「青島の海水浴場に海の家を建てて盛り上げたい」「最盛期に20万人来ていた夏の観光客を取り戻したい」ということでした。コロナ前の時点で、ひと夏7万人まで落ち込んでいたからと。
 けれど僕は、いわゆる“海の家”が嫌いなんです。既得権益そのもので、とにかく商業ベース。そして海はいつもあるのに、夏にしか営業しない。だから最初に、市の方には「“海の家”“海水浴”という発想であれば僕は入りません」と申し上げました。
 やるならば通年をめざすものであり、誰にでも開かれていて、クオリティの高いものでなければいけない。東京からでも、海外から来る人でも、「いい」と思わせる質の高い場所にしなければと説きました。入るコンテンツ、空間デザイン、ウェブやタブロイド誌など、デザイン制作に関して徹底的にいいものを目指し、新しいビーチスタイルを日本に提案しよう、リーディングしていこうと。

 幸い、市の方々、特に窓口となってくれた宮崎市の担当者に理解があり、すばらしい熱量でともに歩んでいただけました。いつだって一番大事なのは、現場で熱を持って頭を絞る人たちです。

風景をつくるのは、人

 町なかにある公園と同じように、誰にでも開かれた場所であってほしい。その意味をこめて、「AOSHIMA BEACH PARK」と名付けました。
 コンテナを置いて飲食店や物販店を入れますが、正直、売り上げどうこうでやっていません。そこが海として開かれていて、過ごしていて気持ちのいい場所であればそれでいい。店で何も買わなくても、家から持ってきたお弁当を食べて過ごしてもいいんです。
 その店が必要な人は利用すればいいし、その店に来たくて訪れた人が使ってくれたら。だからこそ、私もお店の選考に協力し、質の高いコンテンツを置きました。

 一般的な海の家が商業ベースなら、ここはコミュニティベースです。コミュニティとは、人のある風景。そこに眺めのいい海があっても、風景をつくるのは人です。海のある暮らしを人々が楽しむ、そのハブとなるコミュニティをつくることが僕のねらいでした。
 注意したのは、サーフカルチャーの要素を強くは入れない、ということ。僕もサーファーだし、市の方にもスタッフにもサーファーはいます。けれど海はサーファーだけのものではない。あくまでも開かれた場にしたかったんです。