ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSについてのお問い合わせ
【CM情報センター】CMの二次利用についてのお問い合わせ

現在、電話・FAXでの受付を停止しております。
詳細は、「CM情報センター」ホームページをご確認ください。

刊行物

TOP > 刊行物 > ACC会報「ACCtion!」 > 広告ロックンローラーズ

第二十九回 広告ロックンローラーズ
ゲスト:多田琢、山崎隆明

多田: この前も三人で話したよね。

山崎: TCCのイベントかな。

箭内: パルコの地下でね。あれも楽しかったんですけど、今日もよろしくお願いします。だいたいこの連載って、毎回ACCから新しく60歳を超えた方のリストが来るんですけど。

多田: そういうものなの?知ってたら来なかったよ、これ(笑)。そろそろ上がります? みたいなことだろ?

箭内: いや、それでも「どっこい上がらない」人たちはどんなこと考えてるのかなっていう。

多田: そういう人選だったんだ。時代遅れのロックンローラーというか。

箭内: いや、遅れてないですよ。お二人ってある意味「還暦新時代」じゃないですか。

山崎: 還暦新時代?なんだそれ(笑)。

多田: 「新」つければ納得すると思ってるね(笑)。

箭内: 前回は「G8」ってタイトルで、秋山晶さんや操上和美さんら8人に話していただくスペシャル企画だったんですけど、その人たちに比べたら“新人”ですよね。僕から見るとお二人はまだまだ走り続けようとしている。例えば、山崎さん、60でその髪の毛。

山崎: 髪の毛?(笑)まあ、実は歳いってる自覚びっくりするぐらいないなあ。みんなそうだと思うけど、自分が新入社員のときの40代の先輩って、結構オジサンに見えたのに自分が40のときにはそんな自覚ないでしょ?そのまま気がついたら、この歳になってたって感じ。

箭内: その「自覚がない」というのは、どこから来るものなんですか。

山崎: 色々あると思うけどひとつはっきりしてるのがこの歳になっても「自分で企画をやっている」。そこが大きいかなあ。つまり、やってることが昔から変わらなくて。

箭内: 管理職になってないということですね。

山崎: 電通時代は局次長で部下もいたけどマネージメントはやらなかったしプランナーであることにこだわってやってきたのが、この歳になっても続けられている理由なんじゃないか、と。

箭内: 改めてうかがうと、CDではないわけですか、山崎さん。

山崎: いや、CDでありプランナーでありコピーライターです。仕事によってグラフィックのコピーライターをお願いすることもあるけど、基本は一人でやってあとADがひとり。企画を考える時は「どの方向に向かうか」というCD的な視点もすごく大事だしね。電通関西時代の僕の師匠石井達矢さんは、戦略・CMプランニング・インパクト強いコピーまで全部一人でやるスタイルでそこで育ってるのが影響してると思う。例えば昔、カタログ通販の「ニッセン」のCMがヒットしたんだけど。

箭内: ショップで店員さんから声かけられると「見てるだけ」って答えるやつね。

山崎: うん、あのとき石井さんは「店で調べて家で買う」という商品の売り方からひとりで考えてた。左脳的な戦略から右脳的なアウトプットまでひとりでやっててそういうのを見て育ったからなんとなく「全部やることが仕事なんだ」と、思っている節がある。

箭内: だとしても、企画が古くならないのはなぜですか。ちょっと陳腐な言い方ですけど、アンテナが錆びてませんよね。新しい人を起用したり、SNSも活用されたりしてるじゃないですか。

山崎: 自分ではアンテナを張ろうみたいな感覚って、実はこれっぽっちもなくて。ただ、コンテンツに囲まれて集中持続時間が持たないいまの時代を生きている自分の感覚に素直にやってるだけかな。
あと僕の場合、企画の文法やフォーマットがあるわけじゃなくてアイデアの出し方は、いきあたりばったり。それが唯一の戦略だから(笑)。企画の入り口の部分は意外に無防備で、いま目を奪われたもの、いま興味のあるもの、森羅万象いまのすべてが企画のとっかかりになる。その自由度がいいカタチで出る時があるのかな。

箭内: いやー、外から見てるとそれがカッコいいんですよね。素直と言うのとは違いますけど、カッコ良さそうだったり頭良さげに見せたりとか、一切しないカッコ良さ。周りの人に優しいし。

山崎: 優しいかはわからないけど、頭良さげに左脳的企画書だけでクライアントを説得しようとはしてない。それでアウトプットがワークしないのがいちばんカッコ悪いし。広告はすぐ結果が出るから(笑)

箭内: もうこのままずっと行けますね、そのやり方で。

山崎: 行けるのかどうかはわからないけど、企画フォーマットに則って論理的につくられたものとは一線を画す広告にはなると思う。意外性のある表現っていい意味でどこかが破綻しているし、その個性がメッセージを届けるんじゃないかな、と思ってて。そう言いつつ一方で真逆なことを言うと、表現を突き詰めすぎるのも危険な時代だなと感じる瞬間があるのでそこは微妙な肌感でちょうどいい塩梅になるように調整はしていますが。

箭内: なるほど。じゃあ、多田さんにもうかがってみましょう。お待たせしました。

多田: いや、なんかいい話だったぁ。これで終わってもいいんじゃないかな(笑)。

箭内: いやいや、多田さんの仕事もひとつの芯や佇まいがあるじゃないですか。その原動力ってなんですか。見たことがないものを見たいなのか、自分が面白いものが見たいなのか、ずっと止まらない何かがあるわけでしょう?

多田: 止まらないけど、正直、探し出しにくくなってますよね。未知なるものってどんどん減っていくじゃない? 経験や見聞を重ねる中で。そうすると、自分にとって未知なものが、どうしても少なくなっていく。経験が邪魔するのかな。無邪気にアレもコレも面白〜い!とは思えなくて、そこそこ面白いけど小躍りするほどワクワクはしないぞ、とちょっと冷静になっていく。そのときに自分を誤魔化さないでやろうと思うと、結構しんどいところはあるね。

箭内: 未知なるものが減っている?

多田: いや、あるにはあるんだけど、僕の場合、厄介なのは、広告と表現全般の境界線が曖昧だから、興奮するようなものが自分の中に現れたとして、じゃあ、それを広告に置き換えようとしても、距離が遠すぎたりするんですよ。広告じゃないところから、なんとなく第1歩が始まっちゃうんだけど、その1歩をなんとか人と共有したいと思うんですよね。
例えば、いい映画を観たとき、その映画の全体っていうんじゃなくて、僕がグッときたところを人にもグッとくるようにさせたいなっていう。つまり、気持ちを動かす“スイッチ”みたいなものを見つけて、広告にしていこうとしてるんだと思うんだけど、そうやってできたものが受け入れられるかはわからないしね。だから、皆さん言うようにあっけらかんと楽しくやってるわけじゃないと。

箭内: 僕ら言ってないです(笑)。

山崎: ひと言も言ってない(笑)。