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Vol.14

阿仁マタギ・狩猟実践のフィールドワーク

コロナ禍、そしてウクライナというリアル

―バーチャルな世界が肥大していくイメージを持っている人は多いと思います。これからは「リアルな世界とのバランスが重要」という理由は何でしょう?

 2000年代に入ってから、鳥インフルエンザ、SARS、MERS、COVID-19と爆発的に感染症が増えています。目に見えないウィルスや細菌の世界と人間の世界が干渉して、一気にパンデミックが起こる危険が日増しに高まっています。あるいはロシアのウクライナ侵攻のように、局地的な問題が一気に世界戦争に発展してしまうかもしれない。現代はさまざまなリスクが連動していて、人類の存亡の危機がいつ訪れるかもわからない状況です。
 私たちの安穏で便利な生活は、いつ破綻するかわからないリスクと背中合わせにある。バーチャルな心地の良い生活は、リアルな世界からいつ反撃をくらうかわからないのです。リアルとバーチャルの関係性を最適化するのは、世界の住人すべてにとって必要なことで、記号環境が自閉すればするほど、私たちの生活はリスクに脅かされていきます。
 人間も非人間も関係しあっているグローバルな世界では、人間中心主義によって人間の最大利益を発展させ続けるだけでは、これ以上の持続が難しい状況になってきています。すでに絶滅する種も増え続け、それが人間に直接跳ね返る危険性が発生しています。人間のつくりだした世界が大きくなればなるほど、その世界の終わりを早める、というのっぴきならない矛盾に呑み込まれている。そこから抜け出して、もう一度生存のラインを引き直すためには、科学とアートの連帯や、複数種の生物と共に生きるための哲学が必要です。

―私たちはメディアを通して戦争を体験しているとも言えますね。同時体験という意味でウクライナ侵攻や9.11をどう捉えますか。

 私が初めて戦争を意識したのは湾岸戦争です。初めて「バーチャルな戦争」と呼ばれたもので、メディアから消費された戦争でもありました。同時にボタンひとつで相手をせん滅できるようなデジタル化された戦争の序章でもあった、リアルとバーチャルの混ざり合いがありました。9.11のニューヨーク同時多発テロ事件でも、メディアを通してツインタワーが崩壊していくのを目にしたわけですが、そのイメージはすぐさまアフガンやイラクの戦争のための口実に使われました。戦争やテロは当事者にとって生命の危機を生み出すだけでなく、メディアによって遠く離れた場所に住んでいる誰かに影響を及ぼし、別の戦争を起こすための「広告」に使われることもあります。
バーチャルな環境がリアルと地続きであるからこそ、地球上どこで感染症や戦争が起こっても、私たちのメンタルな状況に大きな影響が及ぶことになります。それはかなり切実な問題で、今も世界中の人々が無力感で調子を崩していると思うんです。いろいろな問題がハイブリッドにつながっている、現代社会のひとつの特性でもあります。

 ウクライナで大国の侵略が起こっている。次に台湾で、同じことが起こるかもしれない。じゃあ沖縄は、日本はどうだと。すると、その不安な精神状態を利用しようとする誰かがいるかもしれない、というのが重要な点です。「ほら危ないだろう、だから核武装が必要なんだ」という政治家が現れたり、「民主主義を守るために戦闘に参加すべきだ」という人が出て来たり。私たちの心配やリスクが動因とされて、もっと大きな現実に結び付けられてしまう可能性があるわけです。それに対してどう防波堤を築くのか、あるいは連帯を築きなおすのか。個々人にその問題が課せられている、とても難しい状況です。

―情報を流す側が、それによって人が不幸になるかもしれないということを自覚する必要がありますね。

 良識というものがガラガラと崩れていっている中で、目新しい情報を含む、常識外れなことを言った者が人気者になったりもします。アカデミー賞の授賞式でもあったように、暴力や笑いが人目を引かせてしまう。日々の情報に踊らされないために、どう良識を保つのかが大切です。適切な情報にアクセスし、その正誤を自分で選別するリテラシーがこれほど求められている時代はありません。だからこそ提供する側のメディアは大きな役割を担っています。広告界やジャーナリズム、学術界も含めて、情報を提供する側の責任が重くなっています。

多良間島、塩川御嶽
多良間島のウプリ(虫祓い)行事

―コロナ禍で社会や生活様式が大きく変わりつつあります。一人ひとりの体験や感覚も変わっていくのでしょうか。個人は変容していると思いますか?

 いつコロナ禍が終わるかわからない状況で、私たちはずっと「宙づり」になっています。それは、個人を変えていると思います。自分自身もこの2年で、家族との関係、学生との関係、同僚との関係が変わってきている。それだけでなく、人間と人間ではないものの関係が大きく変わっています。ウィルスという目に見えないものといかに共生するか、とても難しい問題を抱え込むことになりましたが、「変化の途上にあること」が常態になりつつあります。ウィルスという目に見えない小さな存在が、人間の社会的距離や、世界的な経済、ビジネス、アートの世界を大きく変容させていっています。

 コロナ禍は、野生生物の領域に人間の都市が拡張した結果、宿主の動物との接触によって引き起こされた、と考えられています。コロナ禍の背景には他の動物たちがいて、その動物たちと人間が同じ病気になる「人獣共通感染症」の危険性がある。これからは、そこを踏まえて健康を考えていかなくてはなりません。
 近頃、人間と他の種すべてをひとつの健康という概念でくくる「One Health」という考え方が出ています。人間だけではなく、野生種、家畜、細菌・ウィルスとの関係も適切なバランスが必要であると。だから私たち個人の生き方は変わらざるをえませんし、非人間のことをこれまで以上に真剣に受け止める必要があります。
 情報環境の変化の中で、リアルな生物としての変化も同時に見ていかなくてはならない。人間の視覚で捉ええられないものはこれまで宗教が担ってきたところですが、世界には人間の耳が捉えられない音域があるし、知覚できないさまざまな情報があります。それらと折り合いをつけながら、他の生物とも折り合いをつけなければいけない。そういう大きな変化の真っただ中にあります。

記号の外に連れ出す、見事な誘惑者であれ

―ところでSDGsがブームとなって企業や広告の取り組みが記号化されてしまうと、広告に嘘くささがつきまとう状況が生まれます。クリエイターはこれにどう戦えばいいのでしょう。

 そもそも、人間は「嘘をつく動物」と言えるほど「嘘つき」ですから、アーティフィシャルなもの全般に、「嘘くささ」がつきまとうのは宿命なのかもしれません。ですが、優秀なアーティストやデザイナーは、ある種の批評的な幻影=イリュージョンを通して、「嘘くささ」と「真実らしさ」の間にバランスをつくってきました。ピカソが「アートとは、私たちを真実に気づかせてくれるウソである」と言っているように、優れたアート作品は、表面的な「嘘くささ」を超えて、単なる事実を超えた真実を、ありありと垣間見せてくれます。アートは、鑑賞者に隠された現実に導くこともできるし、あるいは虚構から目醒める経験を供給することもできる。広告も同じだと思います。

 思い出すのは、子ども時代にテレビで見た開高健さん、小林亜星さんのサントリーオールドのCMです。お酒に関心がなくても、ナラティブにグッと引き込まれて、幼心に何か不思議な世界と出会わせてくれたと感じさせるCMでした。
 このCMに対して、藤原新也さんが「東京漂流」というシリーズで見せたパロディ作品はさらに見事でした。『メメント・モリ 死を想え』という写真集にも掲載されていた、野犬がヒトの死体を食べている写真に、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という大胆なコピーをつけて、サントリーオールドのパロディ広告として発表したわけですよね。「ヒト食えば、鐘が鳴るなり法隆寺。」とか、当時流行っていたコピーライティングの技法を真似て、絶対に広告としては放映されないイメージを写真作品として提示した。消費社会全般に対して、批評性を突き付けたわけですね。中学生の時に『東京漂流』という本に収められたこの作品を知って、衝撃を受けました。
 質の高い広告には、質の高いクリティックが必要だと思います。開高さんも小林亜星さんも藤原新也さんも、一流のアーティストが共鳴して、そこに批評的に広告が組み込まれていくプロセスにゾクゾクしました。名作CMの作り手と、時代を逆撫でにする批評性を持ったアーティストが共存する時代。これは今失われているものではないかと感じています。できれば別の形で、そんな応答が復活する時代が来るといいなと思います。

ネパール、カトマンズ盆地でのフィールドワーク
フィンランド、ウコンキビ島でのフィールドワーク

―『メメント・モリ』は衝撃的でしたね。

 小学校の図工科の教師だった母がこの本に感化されて、14歳の私をインドとパキスタンに連れて行ったんですよ。思春期だったので、目の前の現実に衝撃を受けました。母親と同じ部屋で過ごしたくないので、朝まで一人でブッダガヤーの街を徘徊したり(笑)。今思えば、これが最初のフィールドワークでした。迷惑を掛けましたが、自分が知っている世界の先に行けるかどうかという経験ができたことを、今では母に感謝しています。

―これまでで好きな広告、これからの広告に求めることについて聞かせてください。

 かつて井上嗣也さんがアーティストたちとコラボレーションした広告に、とても影響を受けています。忌野清志郎さんたちとやっていたことは、広告という意味でも非常に鮮烈でしたし、最先端のアーティストとミュージシャンが単なる悪ふざけではなく、「今はない欲望の在り方」や「もう一つの世界の在り方」を提示する「窓」になっていました。
 広告は、「これを買いたい」という欲望を刺激するものですが、この、「今はまだ自覚していない欲望」を通して、広告が私たちの欲望の在り方を問い直し、社会の方向性を変えてしまえるかもしれない、と思わせてくれるのが、井上嗣也さんの鮮烈なデザインだったと思います。ドキドキするような、プロフェッショナルな仕事でした。

 一方で、広告を取り巻く環境もそれから大きく変わりました。私が学生だった時代は、せいぜいテレビをつければCMが目に入る、街を歩けば看板やポスター広告が見えるという程度でした。今やインターネットのおかげで、スマホを見れば24時間脳髄に広告が刷り込まれるような状況です。広告の制作も一般化して、イメージのクオリティを問わず、プロフェッショナルな仕事ではないようなものも、多くなってきています。
 数年前、私が勤めている秋田公立美大の学生が、世間に溢れる「コンプレックス広告」に反対する署名運動を始めて、それが大きな輪になったことがありました。例えば外見が太っているとか、体毛が多いとか、身体の特徴を卑下する広告、そしてそのコンプレックスに付け込んで、機能的なコスメティック商品やダイエット商品などの購買意欲を煽るような商売が、世の中にはあふれています。私たちの情報環境が、そういう劣等感や不安を過剰に煽るものに変質してきています。

 この署名運動では、私たちの身体の在り方に対して余計なコンプレックスを抱かせたり、規範的な美しさを見せたりするような広告が、結局「外見への差別」や「生きづらさ」を助長してしまっているのではないか、という問題提起につながりました。特に現在のインターネット環境では、簡単にコンテンツを消費したり、便利に買い物ができたりするけれど、同時にものすごい頻度で「コンプレックス広告」に遭遇してしまう。そんな「暮らしやすいけど生きづらい」という、非常に矛盾した社会を私たちは生きています。特にこのコロナ禍で、女性の自殺者が激増している、という状況もあります。携帯の液晶画面を通して消費の喜びを感じながら、劣等感や生きづらさを感じている若者たち、女性たちが増えています。これはもはや、一種の心理的な戦争状態と言えるかもしれません。
 幸い、署名運動は大きな話題になって、具体的な規制基準を整備する会社も現れてきました。これからの広告界には、こうした若者たちの小さな違和感に対して、真剣に向き合ってみる度量が必要だと思います。これは、ある種の常識的な倫理が通用しなくなってしまった現状に対して、どうやって新しい基準をつくっていくべきなのか、という未来的な問題提起でもあります。

―情報環境の変化の中で、「見ない」選択肢がどんどんなくなっている。仕組みをつくらないといけないですね。

 広告は、欲望をつくりだすものです。見てくれについても欲望をつくり出せる。ところが、そのことに対する責任は、残念ながら共有されてきませんでした。情報産業が、自主的に身体のイメージについてのある種の倫理コードを持つことで、不要なコンプレックスの強要を回避できるかもしれません。広告業界だけではなく、SNS社会の中で市民や情報産業の基準を更新し、人文社会の研究者たちと一緒に改善策を考えるためのポイントが見えてきているのだと思います。
 そこに声を上げる若者が出てきたのは、とても誇らしいことだと感じています。広告全体に変革を促すことでもあると思いますし、今の社会で標準化されてしまっている身体のイメージより、もっと多型的で、多様な、別の自分に出会わせてくれる、そんな冒険的な広告にもっと出てきてほしいです。

 広告の作り手には、他者を記号で囲い込むのではなく、記号の外側に誘い出してくれるような、見事な誘惑者であってほしい。もう一度私たちを自然に誘い出すのも、リアルな世界と出会わせてくれるのも、広告なのではないでしょうか。そういうスケールの大きい広告の作り手が、もっともっと出てきてほしいなと思います。
 作り手一人ひとりにも、記号の外にある世界に出会ってほしいし、出会えるような回路をつくってほしいと思います。私たちは、日々の仕事を通して、ローカルな、小さな新しい世界をつくり続けています。それは農家の人が田んぼをつくるのと同じように、生きている世界をつくるということです。21世紀の情報生態系に生きる一員として、人を記号の外に誘い出すような大きな回路を一緒に作りましょう、と呼びかけたいです。

インタビュアー:丸山 顕

石倉敏明(いしくら としあき)
人類学者/秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻准教授


1974 年東京都生まれ。人類学者。秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻准教授。ダージリン、シッキム、カトマンドゥ、東北日本各地でフィールドワークを行う。環太平洋の比較神話学や芸術人類学の研究に基づき、神話集、論考等を発表。美術作家、音楽家らとの共同制作活動も多数。
2019年、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示「Cosmo-Eggs 宇宙の卵」に参加。共著に『野生めぐり列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』など。