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Vol.14

石倉敏明

終息の見えないコロナ禍、ウクライナの惨劇、漠然としたポスト真実への不安。体験したことのない世界の状況に私たちはどう対応すればいいのか。
アーティストとのコラボレーションなど実践的に芸術に取り組みながら、自然と文化の垣根を越えて「人間とはなにか」を模索する「芸術人類学」と呼ばれる学問がある。日本初の芸術人類学研究所の立ち上げに関わり、現在は様々な地方でのフィールドワークを実践しながら新しい価値観を人々に伝える秋田公立美術大学の石倉先生に話を伺いました。自然と文化、バーチャルとリアルが地続きとなった人類学の地平から、メディアや広告の役割を再考します。

広告の作り手には、人間の記号の外にある世界に出会ってほしい

二極論からの逸脱、芸術人類学はなぜ生まれたのか

―聞きなれない学問ですが、芸術と人類学はどのようにつながっているんですか?

 1990年代は、人間に関わる既存の学問の枠組みがガラガラと崩れていった時代です。情報革命やグローバリズムといった社会変化のなかで「学際領域」が求められ、新しいビジョンを持った学問が必要となりました。2000年代に入ると、広い意味での芸術研究を通して、人文科学や社会科学の専門領域を「再編」し、「再定義」する試みが現れてきました。例えば人類学・社会学・哲学・精神分析学・宗教学・考古学・認知科学といったさまざまな領域の問題意識が響き合うことで、今までの縦割りの学問ではなく、越境的な知の在り方が求められるようになってきたのです。
 「人類学」もこの時代に大きな地殻変動を経験してきました。敢えて、ものすごく乱雑に分類してしまえば、「人間とはなにか?」という問いに対して「文化をつくるのが人間だ」と考えるのがアメリカを中心として発展した文化人類学、「社会をつくるのが人間だ」と考えるのがヨーロッパを起源とする社会人類学と言えるでしょう。この二つに対して、自然科学のやり方で、生物としての人間を研究する方法が自然人類学です。ここでは他の霊長類などの生物との比較から、「生物進化の過程で現生人類という種がどう成り立ったか」を研究します。もともと人類学というのは、文系と理系、人文・社会科学と自然科学にまたがる広大な領域を担ってきたわけです。

 芸術人類学は、こうした分類の専門性を横断して、人類学を再編する中で生まれた潮流です。つまり「芸術」という包括的な次元を通して、人類の知恵や可能性を再定義しなおす学問です。2006年には、数ある文化のひとつとしての芸術を研究するのではなく、「芸術こそが人類を人類にしたのではないか」という仮説の元に、多摩美術大学に「芸術人類学研究所」という領域横断的な研究所が設置され、私もその立ち上げに関わりました。
 人間は、芸術というフィクションを通じて世界をつくりかえたり、この世の見えないものを描き出したり、人々の欲望を喚起する何かをつくりだします。こうした「表現」の中には、他の動物にはない、一種の記号的な過剰性が潜んでいます。これが芸術とどう関わってくるのか。人間の脳の構造や、記号的な環境の生態系、人間を取り巻く世界との実存的な関係性の在り方を21世紀的に再定義していこうという学問として「芸術人類学」に注目が集まってきました。

ヴェネチア・ビエンナーレ2019での展示「Cosmo-Eggs 宇宙の卵」の調査地の1つとなった多良間島、寺山ウガン(拝所)の津波石。

―なぜ世界的にそのような学問の流れが起きたのでしょう。

 1990年代になるとそれまで人類学の研究対象とされてきたアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアなど世界各地から、ヨーロッパを起源とする「モダン・アート」を問い直す流れが生まれてきました。人類学者とアーティストたちとの本格的な共同作業が始まり、単に「調査するもの」「調査されるもの」の関係性を超えたコラボレーションが生まれてきました。アウトプットの仕方も、論文や書籍を発表するだけでなく、もっと体感的で、五感を動員するようなメディアをつくりだそうという試みがあります。“芸術の研究”から、“芸術とともにある人類学”へと生まれ変わろうとする変革があったのです。
 一番大きかったのは、ヨーロッパをあらゆる学問と芸術の起源とみなす世界観に対する問い直しの中から「自然」対「文化」、あるいは「理系」対「文系」の二極に学問を分けていた慣習を見直そうという動きが起こったことでした。これまで、「自然」を理解し、その秘密に触れているのは自然科学の奥義に通じた科学者だけだとされていました。その背景には、「自然は、自然科学を生み出したヨーロッパ人のもの」という非常にヨーロッパ的な前提があって、これをもとに「偽の自然」を表象する他地域の思想・文化を理解しようとする「多文化主義」の考え方が尊重されてきました。けれど実際は、自然にはさまざまなアクセスの仕方があるはずで、非ヨーロッパ圏には「自然」対「文化」という二極論を離れた、実にさまざまな思想や表現があふれていることに人類学者たちは改めて気づき、その中で「自然と文化を越境する実践」としての芸術に関心が集まってきました。つまり芸術を通して、「複数の自然-文化の連なり」が発見されていったわけです。

 例えば、日本列島にも、このような広い意味での芸術の素地が広がっています。そもそも我々日本の伝統的な思想では「自然」と「文化」を分けていませんでした。例えば「里山」や「里海」は、自然と文化のハイブリッドなところで日々更新されている。自然の恵みを活かしながら、人間の生活圏を築こうとする世界観の中では、そもそも「ここから先が自然、ここから先が文化」という二元論的な考え方がなじまないのです。各地で伝承されている芸能や工芸といった領域では、「自然」と「文化」の中間にあるハイブリッドな実践こそが重要で、そもそもこの二つを分離しようとする前提もなかったわけです。
 つまり二十一世紀のはじまりの時期に、ネイチャーとカルチャーを二分するのではない、ハイブリッドな世界の捉え方をしようという動きが、特に人類学の内側から起こってきたと言えると思います。僕自身も、そのような新しい関心の持ち方に影響を受けながら、「対称性人類学」や「野生の科学」といった研究を行なう中沢新一先生のもとで研究をスタートしました。学生時代から、当時のゼミ生たちと一緒に、山間地農業や山伏修行など、実践的に自然と触れあう活動を続けてきました。

「more than human」に触れる、フィールドワークの重要性

―スノーピーク山井梨沙さん(代表取締役社長)は石倉先生のことを重要なブレーンとおっしゃっていますね。

秋田県にかほ市・盆小屋行事調査

 私は山井さんの「ブレーン」ではなくて、対話の相手なのだと思います。私はフィールドワークという概念を人類学者の専門用語とするだけではなく、もっと実践的に活用していくことができないか、と考えています。山井さんも、「野生」というまさに自然と文化が出会う最も先鋭的なポイントで、人間の体験というものを捉えなおしていく時に「フィールドワーク」が必要だ、と考えているようです。スノーピークは「人間性の回復」という企業理念を持っていて、そこでいう人間性というのは「自然とつながった人間性」だとおっしゃっています。最初から自然と分断された人間性がヨーロッパ的なヒューマニズムだとしたら、多様な自然と連続性を持った人間性というものが、これからのビジネスやアウトドアライフだけではなく、我々の生活全般に必要なんじゃないかという哲学を探していらっしゃる。山井さんとはとても率直に、共鳴共振をしながらお話していますし、私も多くのことを学ばせていただいています。

―街中に住んでいると自然と触れ合う機会がありません。フィールドワークの重要性とは何でしょう。

 私たちの社会は、記号と商品であふれています。食べ物や着るものについた値段が、私たちの認識をつくっています。けれどその商品がどこから来たのか、どこで生きていたものが誰の手によって食べ物に変えられたのか、というプロセスが認識されていない。人間も記号化され、キャラクターとして消費されます。あたかも、最初から「商品」であるかのように、広告は膨大なモノを宣伝し、消費の欲望に導きます。
 例えば“パッケージされたおにぎり”が商品化・記号化された産業社会だとすると、そこから出て、素材の世界に触れなおす実践が、私が考える「フィールドワーク」です。包装や流通はもちろん、調理される前のコメの育成、つまり「農」の次元を誰が担っているのか。おにぎりの具になっているシャケは、どのように生まれ、どの海と川を回遊してきたのか…など。自然と文化の二分法を越えて、自分の目で見て、触れ、プロセスを再発見することが、21世紀に必要なフィールドワークだと考えます。

 人間が他の人間に何かを伝えるためのツールが記号だとすると、実は人間的なことばや記号の外にもっと別のタイプの記号がある。例えば森の中に入ると、鳥の声が響き、土の香りがして、風がそよぎといった情報が犇めいている。森には、人間が思考する以上の「more than human」な領域があります。人間が人間に伝える記号は、広大な世界の一部でしかありません。人間から人間への記号を超えた世界への気づきが、より広い記号環境のエコシステムにつながっていきます。

ウィズダムとスマートをつなぎ合わせる

―デジタル化が進み、世の中や広告界はバーチャルに向かっています。他の人とリアルな個人的体験を共有するにはどうすればいいのでしょう。

 仮想的な次元とリアルな次元のフィールドワークとを対立させるのではなく、どうつないでいくかが大切です。VR、ARには大きな可能性も感じています。
 人間は非常に妄想的な生き物で、すぐに脳に騙されます。「メタバース」とか言われると、世界は情報環境の中でひとつになれるのでは?とか、仮想のセカンドライフが送れるのでは?とか、夢想的にユートピアのようなものを考えます。けれど「メタ」の世界には必ず、その下にべったりと「リアルな世界」がくっついている。本当に重要なことは、メタ的な記号環境が働いている、その下に動き続ける現実をどう可視化し、決してメタ化できない次元を生きていくか、ではないでしょうか。

 私たちが生きるマテリアルの世界に対してどうアプローチするか。細田守監督の『竜とそばかすの姫』という映画は、田舎の女子高生がメタバースに放り込まれるという話ですが、その中でどんなふうにリアルな感情と身体を持って主人公が生き抜いていくのかというところに、さまざまなヒントがあると思います。バーチャルもリアルも手放さず、ローカルな世界に生きているハイブリッドな現実を、適切にデザインしていかなくてはならない。オードリー・タンさんも言っていますが、高度な情報技術とリアルな自然との関係を両方大切にしながらつないでいく必要がありますが、それは本来、日本文化にとってはとても本質的な問題だったはずです。

山形県・湯殿山でのフィールドワーク
山形県大蔵村・地蔵倉でのフィールドワーク

 例えば「スマートシティをつくろう」という動きは悪いことではなく、コンピューター技術もAI技術も最大限活用すればいい。けれどそこだけが独り歩きすると、その後ろにある「自然(=後背地)」が見えなくなってしまいます。大事なのは、スマートシティがそれを取り囲んでいる森や海とどう再接続するか。人間生活の利便性だけに最適化されたスマートシティから、より広い現実に認識を拡張する必要があります。
 スマートシティには、「ワイズフォレスト(Wise Forest)」が必要だと考えています。「スマート」が人間的知性なら、森の中には人間を超えたウィズダムという別の “知”があります。生態系の中でさまざまな生き物が育んでいるウィズダムには、膨大な情報が含まれている。かつての人間には、森にお寺や神社をつくって大切にしようというワイズフォレストの考え方がありました。民間信仰や小さな伝承の中には、私たちがこれから生き残っていくためのヒントがたくさん眠っています。けれど今の私たちはそこを忘れがちで、ともすればスマートシティがすべて解決すると思ってしまっている。
 一見よくわからない神話や迷信は、他の地域と比較したり、コンテクストを丁寧に洗ってみることで、あたかも土の中にあった破片が土器に組み立てられるように、知恵の体系の一部であったことがわかります。私はそういったウィズダムのかけらをいろいろなところからかき集めて、洗い、他のものとつなぎ合わせ、もう一度組み立てなおすことが、現代の学問やアートにとって大事な実践だと思っています。

 ローカルな世界には、人間を超えた知を学びなおすヒントがたくさん存在します。マタギが森の動物たちを見る視点、山間地農業や伝統農法の担い手が持っている、その地ならではの自然との付き合い方、そこに最大級の創造性があります。だから、マタギや農家といった一次産業の担い手は最大の「クリエイター」だと思うんですよ。そういう在野の知恵から離れて、リアルから離れるほど「クリエイティブだ」という発想にはまやかしがありそうです。「クリエイティブ業界」って、本来何を目指すべきものなのか。本当のクリエイティビティは何なんだということを再発見しなければマズイぞ、と感じています。