Vol.10
太陽企画(TOKYO)/CMディレクター、脚本家
泉田 岳
あの人のノート、いったい何が書かれているのだろう?
世を騒がせるクリエイターの思考法をのぞき見したい。
なんと、今年のACC賞フィルム部門Bカテゴリー(Online Film)で、三井住友銀行「通帳の人」シリーズが総務大臣賞/ACCグランプリを受賞!さらに、Bot Express「すみませんの場所で」シリーズがゴールドを受賞するなど、いま大注目のディレクター泉田岳さん。2016年には俳優の田中佑弥さんと「劇団ドラマティックゆうや」を結成し、作・演出・出演をこなして年に1度の単独公演は満員御礼。リアルな会話、どこか引っかかる違和感、思わず笑ってしまうユニークネスはどう生み出されるのか?本誌編集長の安達が話を聞きました。
黒歴史や意識下の思考を言語化し
感情に触れる会話を生み出す
大事なのは言葉。
メモはすべてテキストのみ
―日々のインプットやアウトプットにノートを使っていますか?
パソコンと同期したスマホのメモアプリを使っています。絵や図は描かず、すべてテキストです。
仕事が始まったら、最初のメールからオリエンの内容からすべてここに書き込んで、すぐその下にストーリーを書いていく感じ。CMの企画コンテをいただいたら文字の所だけAIに起こしてもらって貼り付けて、次の段にセリフを足した新しいものを書いていくやり方です。
実は、企画コンテの絵は参考程度。演出コンテを描いていても思うんですけど、結局机上の空論だなあと。個人的に、より魅力的なセリフや話を理解するための"言葉"のほうが重要だと思っているんです。
―それは意外です。図もまったく描かない?
図を描くのは、物語の人物相関図で頭を整理するときくらいですね。一方でオリエン時のテキストのメモは、何から何まで残していきます。僕の所に来る企画は実はクリエイティブの皆さんにとってB案かもしれないということや、クライアントさんがなぜこれを選んだのかといった温度感も残しておいて、何がプランニングに重要かというところまで書いて、見直して、必要があれば企画コンテをリメイクしています。
―どれくらいの企画コンテを膨らませているのだろう。たとえば、JR東日本/Suica「たみちゃんの上京」では、クリエイティブチームからどんな風に伝えられているんですか。
企画の骨子とともに、実話のストーリーと、わかりやすく企画コンテにされたものが僕の所に来ました。「上京する際、父親から渡されたSuicaの中に2万円入っていた」「亡くなった夫のSuicaを使って外出しています」というエピソードで、これを実写化したいと。
―絵を描かないというのは意外でした。演出コンテでは描きますよね?
もちろん。ビジュアル的なものが必要だったり、キャラクターをつくるときには絵を描きます。ただ、そのほかはいいセリフやお話が書ければよいので。絵は説明の道具で、基本的に大事なのはその絵をのせる言葉だと思っています。
(クリック/タップで各画像拡大)
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何も続かなかった少年が
唯一好きだった絵とCM
―泉田さんの幼少期からこれまでを教えてください。どういう経緯でCMディレクターになったのでしょうか。
サッカーも野球もギターも途中でやめて、続けているものが何一つない学生時代でした(笑)。いざ進路を決めろと言われて、振り返ったら蓄積したものがなかった。唯一、絵を描くのはずっと続いていることだから、絵だけでもうまくなったらいいな〜と美大の予備校に通い始めたんです。
―マンガを描いていたんですか?
いや、描いていたのはずっと落書きです。マンガは小学校の時に1ページだけ描いて、「思っているより大変だな…」とやめました。いつも読んでいるマンガは上手なのに、自分が描いたのはヘタだからテンションが上がらなくて(笑)。ちゃんと上手に描けるようになりたいなと、予備校に入ったんですね。
その先のビジョンがあったわけではないんですけど、通ううちに「みんな美大に行くんだな。そして広告系の仕事に就くらしいな」とわかって。振り返ると自分にとっての身近な「広告」はやっぱりCMだったような気がします。みんなと同じように美大に行って広告の仕事をするのかな〜?なんて思っていたら、なんとか多摩美術大学のグラフィックデザイン学科に入れました。
でも就職活動のときに東日本大震災があって、半年くらい採用面接がストップしてしまったんです。強制的に停止させられて、半年間ボーッと。その間、自分が目指している職種の人たちが、この有事に何をしているのか見ていました。
ちょうどそのとき、大学時代に仲のよかったバンド「快速東京」がブラジルで大ヒットするんです。先輩がPVをつくっていて、それがブラジルで流れて「日本は大変な状況だけれど、若いクリエイターは頑張ってるぜ」と現地の新聞の一面に載っていました。当時の僕は映像というものの前向きな力と、色んな人に伝わる速さにとてもポジティブな印象受けたんです。すぐに、まだ受けられる映像制作会社を探し、ギリギリ太陽企画に受かり、企画演出部のディレクターになったという流れです。
―大学時代に映像制作をしていましたか?
「快速東京」のPVをつくったり、人形劇をつくったりしていましたけど、全部遊びです。友だちとつるんで遊ぶのに、手近な道具として映像があっただけ、という感じですね。ちゃんと勉強していたわけではなく、遊んでいました。


