~クリエイターわらしべ物語~
伊藤直樹
あの人「は」今って言ったら消えた芸能人の行方を探すアレですが、あの人「が」今と言ったらその逆です。若かりし頃その手にあったものは藁だったのに、ACC賞の受賞後どんどん箔の付いたものを手中に。そんなわらしべ長者的にビッグになっていったクリエイターをご紹介します。
第一回目は押すも押されぬ人気クリエイター、PARTYの伊藤直樹さんに本誌編集長が直撃インタビュー!
沸々とマグマをたぎらせていました
―伊藤さんは国内外で200以上の広告賞やデザイン賞を獲得されています。ACC賞で初めてファイナリストに入ったのは2007年、36歳くらいの頃でした。それ以前はどのような活動をなさっていたんですか。
「はじめADKにいた頃は、クリエイティブではありませんでした。7、8年間プロモーションプランナーとインタラクティブプランナーを兼務していたんです。元々は映像が好きで、大学時代も映研に。その頃出てきたインターネット×映像みたいなことができないかと考えてADKに入社したんですけど、クリエイティブには行けなくて。ただ、入社して2年目の時にインタラクティブの部署ができたので、「インターネットの未来について」っていう論文を書いてそこに入れてもらいました。でも当時インタラクティブの部署にあった仕事って、メーカーのオンライン見積もりシステムを作るみたいな作業ばっかりで、クリエイティブではないんですよ。心の中で「映像をやりたい!」って、沸々とマグマをたぎらせていました。」
―たぎらせていた部分って、どこにぶつけていたんですか?
「ADKのような大きい会社って、資料の宝庫なんですよね。カンヌの10年分とかビデオで全部見られたりして、いつか獲ってやると思って分析していました。図書室にも行って資料読んで、捨ててある雑誌も全部もらってワーッと読んで。PARTYのような規模の会社にはそこまで資料がないから、そんなことできないですからね。大きい会社はその辺のパワーが半端ない。使える物は使った方がいいと思います。」
―そこで触発されたものは仕事に活かせましたか。
「活かせました。2004年くらいでクリエイティブに移ることができたんですけど」
―で、2007年にACC賞で入賞したのが「NIKEid」ですね。この作品は、秋葉原の町で大勢の何とかレンジャー的な者から逃げ回るという…。正直、あれを踏襲したような作品をたくさん見ます。未だに影響力がありますよね。
「あの作品はたぶん、日本で初めてYouTube用に作られたCMなんです。当時はYouTubeも知られてなくて、その発想自体がみんなの中になかった。NIKEさんは"早い"ので、提案が通ったんですよ。でもその映像を賞に出そうと考えると、ジャンルがないから出し先がないんです。CMっぽい作品じゃないし、長いし、ACCは難しいかな~と思いつつ、地方局だかで何度か放送したこともあって、ダメ元で出してみました。そしたら上位にはいかなかったけど、「あっファイナリストくれた!」と思って。嬉しかったですよ。」
自分が新しいやり方の先鞭をつけたい
―クリエイティブに移ってから割とすぐに開花してますよね~。どうしてこの頃、ADKからGTに移ったんですか?
「僕はADKで、他に誰もしてないケータイのアプリとか手がけていて、YouTubeだってみんな知らないし、属する部署がどこにもなくて浮いていたんです。肩書きはCMプランナーだったけど、CMの仕事はほとんどやってなかったですよ。クリエイティブに来てからようやくコピーライターやCDの人と話せる環境になりましたけど、デジタルの人は全然いなくて、外部の人のやり方とか観察してました。でも会社には道が敷かれてないから、自分がその先どうやっていいか相当悩んでましたよ。で、NIKEidのあと、亡くなったCMジャーナルの菊池さんが、GTの田中徹さんや内山光司さんに僕を紹介してくれたんです。そしたら徹さんが「面白そうだから来いよ」って言ってくださって。ちょっと悩んだんですけど、内山さんというデジタルの先端を行く人と、ガチンコテレビの徹さんたちが組んでいるってことが面白かった。まさに自分がやりたいことなのかなと思って、移りました。ADKにいた頃は自分に自信もなかったんだけど、GTに行って初めて「自分が新しいやり方の先鞭をつけたい」と思うようになりました。」
―2009年は、サガミオリジナルの「LOVE DISTANCE」でACCゴールドを獲りました。
「応募してみて、ACCにどう評価されるのかが楽しみでした。ACCの審査員は世間で評価されているヒットメーカーなので、その人たちからイイねって言われるかどうかは僕の中ではすごく大事。お墨付きをもらえたというか。この時で言うと佐々木さんや岡さんが「いいじゃん」と言ってくれるかという。結果、みなさん推してくださって、岡さんはマイベストに選んでくれた。僕は、"ACCっぽくない人"という感じが自分の中にもあったし、人からも"海外ウケ"みたいなレッテルを貼られやすいんですけど、東京で働いているんだから国内の人にいいと言って欲しい。そういう意味でも、ACCでちゃんといいって言ってくれたのが嬉しかった。評価されたことが、自分の中でひとつの画期的な事件でしたよ。」
―その後ワイデン+ケネディの共同代表に。
「ジョン・ジェイに誘ってもらったんですけど、1年くらい悩みました。でもADKのとき一緒だった久山くんもいたし、佐藤澄子さんとよく話して、ワイデンはメッセージをしっかり考える会社で、そういう意味では面白いなと。それから、テレビは強いんだけどそれ以外があんまり強くないイメージがあって、新しいワイデンの姿を期待されたので、それならいいかなと思って移りました。2年半くらいの短い間でしたが」
プロダクトを作る時代になると思って
―PARTYを作ったのはなぜですか?
「震災後すぐの創設だったんですけど、プロダクトを作る時代になるんじゃないかなと思って。今でこそIOT(Internet of Things)「もののインターネット」って言い方をするんですけど。メーカーさんにはコミュニケーションを作る人がいないから、そういう仕事が来る、PARTYのような会社は需要があると思い込んで。考えれば考えるほど、商品そのものを作りたいという気持ちがどんどん出てきて、もう表明しちゃった方がいいなと思いました。あと、デジタルの人ってバラバラに散ってたんですよ。結集すれば力に見えるから、徒党を組むって意味でのPARTYでもありました。」
―最近、成田空港の第3ターミナルを手掛けられましたね。
「スカイツリーを作った日建設計さんと、無印良品の良品計画さんと共同で。3年前に、日建さんから「サインをお願いしたいんだけど、サインだけじゃなくて、人の体験をすべて計算するような空間をゼロから一緒に作りたい」と話がありまして。ただし予算が通常の半分で、動く歩道も入れられませんと。「え?うちはデジタルはできるんですか?」って聞いたら、できませんと。「は?何をやればいいんですかね?」みたいな(笑)。」
―コストを押さえろっていうところから始まったんですね。
「これにはSP(セールス・プロモーション)の知見が役に立ちましたね。イベントやモーターショーのブースを考えたことがあったから、人の動線やもてなし方や…。それこそ江成(修)さんとか、新入社員だった頃の上司だった千布(隆一)さんとかに教わった知見で。家具を無印良品さんにお願いしたのも、通常の10分の1くらいのコストで作ってもらえるから。値段の割に、デザインも良く実用的でもある。「お金かけてないけど、工夫してオシャレに見せる」ということをやりたかったんですよね。」
―第3ターミナルの象徴ともなった、トラックも考えたんですよね。わかりやすくて、世界中の空港がこうなればいいのにと思うくらい。
「実際に競技場にトラックを敷設している会社に、素材も入れてもらって、本当にオフィシャルのトラックと同じなんです。反発性があって、歩きやすいんですよ。このターミナルは距離が長いのに歩く歩道もないから、普通に歩いたら超つらいし、絶対文句言われる。ってところから発想したんですよね。歩く楽しさがストレスを緩和してくれるように」
メディアに囚われない映像広告賞へ
―そんな伊藤さんにとってACC賞ってどうですか?今度Bカテゴリーができますけど。
「それはグランプリ欲しいですよ。これまでテレビCM部門には応募するものがなかったけど、Bカテにはバンバン出したい。僕は2011年に審査員もやらせていただいているのでなんとなくわかりますけど、ACC賞いいと思いますけどね。人が言うほど悪くないと思いますよ」
―そう、みんなすぐ文句言うんですよ…。では、広告やメディアはどうなっていくと思ってますか?
「ACC賞がAカテBカテ別れても、多分また収れんすると思いますよ。(えっ)
なぜかっていうと、CMがテレビで流れているのか、YouTube上にあるのか、はたまたブルーレイに保存したものなのかわからなくなると思うんですよね。なので、映像の技術やクオリティを評価する"映像広告の賞"ということであれば、ものすごくいいと思います。うちではテレビ局の仕事を結構やってて、スマホと連動したホラー番組「SHARE」などを作りました。テレビ局は確実にインターネットと握手しようとしている。CMだけがフォーマットを変えてないので、そろそろ変えてもいいのかなって。」
―なんで変えないんでしょうね。どんなにプレゼンテーションしても「ああそうですか」で終わっちゃうことが多い。で、これ私、人によく聞くんですけど、伊藤さんにとって"クリエイターとして一番幸せだった時期"っていつですか?
「GT時代ですかね。マンションの一室を与えてもらって、ひとりっきりで仕事してたんです。そこである種孤独な状態を楽しめた。自由に好きなことをして、内山さんや徹さんが守ってくれるという中で、「LOVE DISTANCE」や「BIG SHADOW」が生まれました。そこへきて菊池さんも「やれば道ができるから、自信を持ってやれ」って応援してくれたんで。一番好きなことができたんです。」
―そこからだんだんビッグになっていった。
「いや(笑)。大変ですよね、プレーヤー増えてくるし、自分ひとりでやってるわけじゃない。でももう仕事がひとりでできるボリュームじゃないんで。成田空港も、ひとりでできるサインの量じゃないから。」
―伊藤さん、常にすごい量の仕事を持ってるイメージがあります。どうやってこなしてるんですか。
「自主プロジェクトが3つ4つ…クライアントが4つ5つ…計10コくらいやってると思います。今はみんながいてくれてるから。スケジュールを僕の代わりに覚えていてくれる人もいれば、コピーを練ってくれている人もいて、それがないと難しいですよね。ネーミングだって100個とか出して考えますから、全部はできませんから。作業をみんなでシェアしていくということが、だいぶわかってきましたね。GTの時なんかは、全部オレがやるって思ってやってたけど、だんだんそれができなくなって。今気づくと、若いADとかに「一人で全部やりたいと思ってるだろうけど、できなくなっちゃうよ」って言ってるんですよ(笑)。
もう、それやったら死にます
―伊藤さんが部屋を与える側になったりね。そんな中で、これから何がしたいと思っていますか。
「NYオフィスで犬用のLEDベストを出したんですけど、自分たちでモノのプロトタイプを作って、それを発表して世の中に問うということはやっていきたい。あと僕は「体験型」が好きなので、芝居とデジタルを絡めたものとか…究極は遊園地をやりたいですね。もう、それやったら死にます。そのオファーを頂けるように、体験型の自主プロジェクトや空間を引き続きやっていきたいです。」
―では最後に、業界の若い人たちにアドバイスをください。
「僕、映像をすごく広くとらえてるんですよ。フラッシュとか、アニメーションとか、ユーザーのインターフェースとか、そういうのも映像としてとらえてます。で、映像好きな人って、動いてるもの何でも好きなんじゃないかなと思って。だから映像のアイデアや表現を考えられる人は、きっと何でもできる。僕は自分にそう言い聞かせてやって来ました。インターフェースって映像的なんですよね、プッと押したら画面がどうなるかっていうのは映像的な表現じゃないですか。ただそれがちょっとインタラクティブになってるだけで、ちょっと押したらヒュンと開くみたいのは映像企画だから。だから自分はCMプランナーだからとか思わないで、何でもやっちゃえばいいんじゃないかな。肩書きに囚われない方が絶対にいい。日建設計っていう成田空港で一緒にやった会社とも、本当に相乗りだったんですよね。僕も建築のこと言うし、「これ梁や配線そのまま見せた方がいいんじゃないですか」とか、向こうもサインのこと言ってくるし、もう相乗り。それが人の領域に侵食してるとは思わない。自分の領域を超えていくってことは、人の領域に足を踏み入れるってことだから。それはお互いさまで、自分も入ってこられることをわかったうえで接しないと、揉めてしまう。僕はそういうのすごくウェルカムで、うちの社員でも「僕はADだけど言葉考えてみました」という時に、お前は考えなくていいよとは言わないし(笑)。だから、勝負してほしいですよ、若い人たちには。「ちょっと空間も考えちゃって」とか、「イベントプラン考えちゃって」とかね。
―ありがとうございました。
伊藤直樹(いとう・なおき)
クリエイティブディレクター。1971年静岡県生まれ。早稲田大学卒業。
クリエイティブラボ「PARTY」の代表取締役(CEO)。
これまでにナイキ、グーグル、SONY、無印良品など企業のクリエイティブディレクションを手がける。
カンヌライオンズフィルム部門での金賞をはじめ、文化メディア芸術祭優秀賞、グッドデザイン賞など、国内外の200以上に及ぶデザイン賞・広告賞を受賞。
京都造形芸術大学情報デザイン学科教授。